見えないってどんなことなの?

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  「目が見えないってどんなこと?」小さい時、グランドで遊んでいたら友達に言われた。 私は困りはてた。「それじゃあさ、目が見えるってどんなことなの?」と聞き返したことを今でもはっきり覚えている。
 友達に「目が見えない」ことに付いて初めて質問されたのである。自分としては答えにならない答えを出したようだったが、確かに「見えない」とはどういうことなのだろうか?幼少時代の答えを探ってみようと思いペン「点筆」をとる。  
  広い場所に、例えば体育館ということにしよう。そこに一つの椅子を置く。そして何の説明もなしに一人で歩いていって持ってこなければならない。そんな時、「見える人」は、何も苦労無く持ってこられるだろう。しかし「見えない」となれば一変する。捜す方法が全く無いとは言い切れないだろうが、無いに等しい。虱潰しに歩き回るというのも良いだろう。でも何時になったらその「椅子」という物に辿り付けるのだろうか?  しかし、ほんの一言を添えてもらえるだけで、私達の「椅子を見付ける」という可能性はぐんとアップするはずだ。「体育館を入ったら右に向いて壁にぶつかるまで歩いていってね。それから壁を伝って左に行くと椅子にぶつかるから。」なんて言ってくれれば、左側に用は無いのだから右側ばかり捜していれば椅子にも出会えるというわけだ。
 人と会うときも同じである。待ち合わせは至難の技である。相手が側にいても声が無ければいないことと同じだ。見えないとはそんなことだ。「あら、いたの?」なんてことは日常茶飯事である。よく黙って頷いたり、会釈して立ち去る人がいる。しかし、その優しさは残念なことに私には届くことはない。頚の辺りに触れていると、頷けば微かに動くので分からないことも無いが、触られる方だって嫌に決まっている。  ウインクしたり、手を上げて「やあ」というポーズを取り、遠くから挨拶されても分からない。視線も感じない。冷たい目を知らないから幸福ではないかと言われたことがあったが、優しい笑顔や瞳を見られないのは悔しいことである。「あんなやつの顔も見たくない」という言葉がある。私に当て嵌めれば、「あんなやつの声も聞きたくない」といった所だろうか?だが、「どんなやつでも顔を見てみたい」というのが真実なのかもしれないと思う今日この頃である。


えんぴつ


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